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メキシコ、カリフォルニア、日本 暮らしへの好奇心は尽きない
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カイロの本棚

カイロの日本人向けバックパッカー宿の本棚。年季の入った本が無造作に並べられていた。
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みんなが置いていきゆっくりと時間をかけて溜まったものだ。比較的面白そうなのは旅人に持っていかれ、お呼びのかからなかったものがひっそりと余生を過ごしている感じ。20年近く居座ってそうなツワモノも紛れ込んでいて、どことなく聖域化している。

旅に連れてこられた本は、重いバックパックの最下部に敷かれペチャンコになり、ジーンズの尻ポケットに入れられ汗でゲショゲショになり、メモ帳として数ページ引きちぎられ、ゴキブリとの戦いで返り血を浴びたりの試練をくぐり抜けてようやくここに辿り着いたんだろう。

かなり古い本が多いけれど日本の本が並ぶこのスペースに身を置いているとほっとする。例えるなら旅先で日本大使館に駆け込んだときの気分に近いかもしれない。知らないところを勝手に歩き回って疲れるという身勝手な自分を、それでも愚痴一ついわず迎え入れてくれる。何だか、年老いた人格者のじいさんのようでもあるね。

今日もカイロ日本人宿の本棚に鎮座する本たちは、日本の喧噪など我関せず、古き良き時代のテーマを背に掲げのんびりとけだるい午後のひと時を楽しんでいるに違いない。疲れた旅人の訪れを待ちながら。

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アレキサンドリアで本を読む

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エジプトの地中海沿いの町アレキサンドリアに行った理由は、中東の肉食に飽きそろそろシーフードが食べたくなったことと、世界一古い図書館で本を読んでみたかったからだ。

アレキサンドリアに図書館が出来たのは紀元前300年ごろらしい。大金を注ぎ込み世界中の貴重な原本を集めていった図書館にはユークリッドやアルキメデスらも通った。当地を治めていたクレオパトラも訪れたことだろう。地中海を望むように建っていた当時の知の宝殿はどんな様子だったんだろう。そんな思いを胸に2001年に再建された建物を訪れた。

入場券を買って中に入って驚いた。階が段々上になっているのだ。最上階まで行くと遥か下まで見渡せる。天井がかなり高い位置にあるので解放感がすごい。フロアにはたっぷりと読書スペースが取られ、エジプト人の学生が勉強している。建物中にはギャラリーや博物館などもあり、フロアには古い印刷機械が展示されていた。

さっそく、今回の“アレキサンドリア図書館で本を読む”という目的を遂行するために書架に向かった。今回の中東の旅は、先人との対話を試みる旅でもあったので、なんとなく足は“哲学”のコーナーに向かった。Philosophyと書かれた一角にたどり着くと、そこには世界中のセレクトされた本が静かに僕を待っていた。その中の一冊を手に取ると、空いていた近くの机で1時間近く読書に耽った。

なんという贅沢だろう。世界一古い図書館のあったところで、時間を気にすることなく哲学書が読める。しかもここはエジプトで、目の前は地中海だ。求めれば手に入る有難い時代に生きていることを実感させられる。だったら、好きなことはせにゃそんじゃわな。

それにしても、なんで人は古いものに会いに行きたくなるんだろう。古いものを訪れ、その当時そこに生きたであろう人の心に添ってみようとする。なぜそんなことするのだろう。単なる好奇心からか?何かを求めてそうするのか?それとも人は、先人たちが残していった遺跡を前に、自分たちが死んだあと世界はどんな風に残ってゆくのかを確かめたくてそうするのか?

誰か教えて欲しい。
砂漠の修道院


(アスワンからナイル川対岸のヌビア人の村近くの砂丘より)

あらかたのエジプトに行く人のお目当てはピラミッドやファラオの残した財宝だ。ギザのクフ王のピラミッド、ルクソールの王家の谷、最南端のアブシンベル神殿、そしてカイロの考古学博物館に安置されるファラオのミイラとツタンカーメンの財宝など、ミステリアスで一度は見てみたいものばかり。しかし今回の旅で僕が一番興味があったのは、エジプトの砂漠に点在する修道院だった。

エジプトは紀元前30年にプトレマイオス朝のクレオパトラが自殺したあとローマの属国となり、その頃から原始キリスト教であるコプト教が広まっていった。しかしコプト教はキリスト教に取って代わられ次第に迫害されるようになる。やがて7世紀にアラブ軍のエジプト征服によりキリスト教の時代が終わり、エジプトはイスラム教の国となる。そんな中、エジプトのコプト教は砂漠の真っ只中という過酷な環境に修道院を築き、今日までその精神性を伝えている。

僕がその存在を知ったのは、“砂漠の修道院”という一冊の本からだった。その内容はエジプトの砂漠に展開するコプト教修道院に対する1人の日本人研究者のフィールドノートだ。その本の中に掲載されていた果てしなく広がる砂漠にポツンと佇む僧窟の写真に心を動かされ、自分もその中に身をおいて何を感じるか試してみたかった。本によると、紀元4、5世紀ごろは不毛の荒野に向って脱出する世捨て人が後を絶たなかったらしい。彼らはエジプトの涸れ谷やヨルダンの荒野、小アジアの大渓谷に住み着いて自分の洞窟をうがち、人との繫がりを一切断ち、たったひとりで断食と祈りだけの苦行に身をさらし続け人知れずこの世から消えていったのだろう。

東方砂漠の修道院の中でも、“ワディ・ナトルン”にある聖マカリウス修道院に行って(泊まって)みたくて何度も電話をかけたが誰も出なかった。旅程の関係もあって今回は断念することにした。しかし別の機会にコプト教とは関係ないものの、上の写真から30分歩いたところにある“聖シメオン修道院”まで砂漠を横切って訪れた。その修道院は残念ながら13世紀に廃墟となり、訪れる者もほぼいない状態で砂漠の風に吹かれていた。その規模はかなり大きく、相当な人数の修道増が住んでいたことが伺えた。

砂漠の修道院での暮らしは、ドッグイヤーに生きる僕達とは対極にある生き方だ。寿命の変化はあるものの、昔の人も今の人も人生の価値は等しく、人間としての使命も変わらないはずだ。しかし、昔と今とでは、人の考えていること、そして行動には天と地ほどの差がある。

科学の進歩と共に人間は進化せずに、逆に退化してきているような気がする。いつの頃からか人間は頭を使わなくなった。ベルトコンベアーに乗って言われるままに動いていれば悪いようにはならない生活が人から考える機会を奪った。翻って砂漠の修道院。敢えて不便で過酷な環境を選んでその中で生活を営もうとする精神。砂漠の風に数時間吹かれたせいか、そこに隠された意味を少しだけ感じ取ることが出来た気がする。
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WELCOME TO Move On

異文化と自然を愛するイグアナ楽団のページへようこそ。これまでメキシコとアメリカに合計10年住んできました。それ以来人生の歩き方をテーマとして追い続けています。海外を旅するといつも考えさせられる豊かさとは何か。それについて思ったことを書いていきます。
プロフィール

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イグアナ楽団
性別:
男性
自己紹介:
好きな言葉:「生きていくうえでもっとも大切なことは、自らを律し、可能な限り自分に正直であること」
by Robert Redford

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