忍者ブログ
メキシコ、カリフォルニア、日本 暮らしへの好奇心は尽きない
[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

アンティーク 基本は買うものじゃなく作るもの

今日友人竹から僕のテレビを案ずるメールが来た。そのテレビとは19インチのビデオ再生機のついた大昔のもので、別の友人から不要になったものを譲り受けたものだ。先日チリの救出劇をTVで見て目頭を熱くしたとブログに書いたら、竹のやつ「イグアナ(小生)があのTVにかじりついて泣いている姿に泣けた」と書いてきやがった。さすがシニカルな奴だけある。いいとこ突いてきやがる(いつでも液晶42インチの無償提供受け付けてるぞ)。

さて、古いものを使い続ける話が出たので、アンティークについて思っていることを書いてみたい。

自分はアンティークは大好きだ。街を歩いていて、骨董屋や質屋があるとついついショーウィンドウを覗いてしまう。人間もただ明るいだけの人よりくすんでいても味のあるタイプに惹かれる。そんな古物好きの自分だが、アンティークを金で買うという行為に違和感のようなものを感じる。

元来人と物との付き合いとは、壊れたら修理しながら大事に使い続けるというものだったわけで、そんな生活習慣が古いものを存続せしめてきたわけだ。だから魅力的な古いものを所有するということは、本当はそれを使い続けてきた人だけが受け取るべき勲章のようなものだと思っている。しかし、時が流れ貨幣経済が進むとお金で時間を買えるようになった。その結果、人は他人が長い時間をかけて育てることで生まれる価値をお金で買うようになったわけだ。そこに一種の軽薄さを覚えるのだ。(誰かがそれを引き取らなければ、廃棄され、この世から消えてしまうものは別)

アンティーク。長い年月を経てきて今でも仕えるもの。そのためには豪華である必要はないけど、素材的にも構造的にもある程度しっかりとしたものが求められる。ふとそんな商品が今どれだけあるのか考えてしまった。いや、あることはあるのだけれど僕たちの生活は使い捨て商品に席巻されてしまっている。だからそういうものに目を向けるという感覚を失いつつあると思う。

華美でなくてもいい。値段もバカ高くなく、デザインも飽きが来なく、使い込むほどに愛着が増してくる普段使い出来るもの。そんなものこそ買うべきもの。そしてそれを使い込む。アンティークを買うんじゃなくて自分でアンティークを作る。そんな風な心持ちでいたいと僕は思っている。

(注:本文と私の古テレビとは一切の関係もございません。私の古テレビはアンティークではなく、ただのオンボロTVで経済的事情その他人道上の理由のために我が家に留め置いているだけでございます。あしからず)
PR
“すべて持っている” from Salta/Argentina

Camiluch@salta/Argentina Blog "Café Cortado Con Tres De Azúcar"
Personal Data: 24歳独身女性
Personal Comment: “コーヒーを飲みながら思いついた言葉たち。考え、想像し、そして夢見る”

2010年9月28日(火) “すべて持っている”

“すべて持っている”は私のWinamp(音楽再生ソフト)に入っているCafe Tacubaの歌のタイトル。眠くない。コーヒーが無くなった。今は午前1:43。

ずいぶん前から不安を伴わない不眠症は訪れていない。ただ眠りたくないだけだ。読んだり、書いたり、落書きしたり、違ったことを考えたり、計画したり、さらにそれをぼやけるまで繰り返したりしたいだけだ。

不眠が最後に訪れたのは、Mがもう私を好きではないと知ったとき、言い換えれば全ての始まりのあるゲームには終わりがあると知ったときだった。恐ろしかったけれど所詮ゲームだった。後に、チェスの駒が私で象牙色のそれを操るのが彼だったと気付いた。

もちろんもう問題にしていない。束の間の出来事。すぐに全て収まった。そして不眠症もなくなった。ストレスという仕事上の問題を除いては。でもそれを除くと、フィエスタ以外では眠らない日はなかった。

そのころ少し旅をした。そして続けてさらに少し旅をした。
足取りは夢遊病者のようだったけれど、不眠はすっきり消えた。

でも今は違う。私には誰かのせいに出来ない不眠がある。もて遊んだり、いろんなことを言わなかったり、嘘をついたり、もしくはとある作家のように考えさせる文章を書いたりするMがいないのにだ。今私は純粋な幸せと笑顔、計画と喜びに満たされている。習慣になっている不快感は少しだけあるけれど。あれこれ考えてしまう悲しい出来事もあったとしても解決できないことはない、そんな心の状態だ。

それなのに今、忌々しい不眠がやってきて、眠れないでいる。
世界のBlogから “ものにせよ” from Bogota/Colombia



Karen@Bogota/Colombia  Blog: "A letter from Penny" Personal Comment: “私は影を操れる。でも日食には抗えない”


2010年7月5日(月) “ものにせよ”

あれは確か2008年5月の終わり頃のこと。正確には28日だったと思う。前期の休暇のためにカルタヘナに戻るところで、飛行機の搭乗ブリッジのところで面白そうな男性グループを見かけた(ミュージシャンらしい)。その中にどこかで見たような顔を見つけたので近づいてみると、翌日町で開かれる自分の兄も出演するコンサートで演奏するグループだった(偶然?)。彼らと少し話した後、すぐに搭乗時刻になった。彼らと席は離れていたのでそれっきり姿を見かけることはなく、そのまま荷物を受け取り音合わせのリハーサル中の兄を訪ねて行った。すると搭乗ゲートで一緒だった中の一人が(名前もわからず話さえもしていないけれど)、有名なアーティストのマネージャーと一緒にいるのに気付いた。そこで『あそこにいるのは誰?』と聞くと、彼の名はManuelといいそのアーティストと一緒にギターを弾いてることなどが分かった。そのとき、彼は自分のことを何度も見ていたので、彼のところに行って話かければ良かったのに。そう例えば、水でも買ってこようかとか、運転役を買って出るとかのおせっかいを。分かっていたけれどそのときは何も出来なかった。

(翌日)
じきに訪れる今夜は、バックステージに入って自己紹介するいい機会だ。私は昨夜彼を見かけたことや何か気の利いたことをいうつもりでコンサートに出かけた。けれど、何時間過ぎても彼は現れない。そのアーティストのバンドメンバーは誰も到着していなかった。すると突然出番5分前に彼らが到着した。そして、自分を見かけると、『やあ』と言ってすぐにステージに上がって行った。その言葉は私にとっては愛してるって言われてるようだった。まあそれは大げさ過ぎるけど、その瞬間その挨拶と笑顔が自分の魂に触れ、すぐに降りてきて私に近づいてきてくれる彼を食事に誘いたくなった。何かが自分の中で起きたのだ。なぜかって自分だけに『やあ』と言ってくれたのだから。

50分近く過ぎ、ちょうど彼らが降りてくるとき、よくある浮気のせいで今は別れてしまった当時の彼氏から電話が入った。もちろんここでは話せない。そこでステージの彼に聞こえないでいて彼の姿が見える位のところまで少し移動した。すると突然彼が自分を見て笑顔を送ってくれた。自分もこんな状態だったけど笑顔を返した。それだけだった。すぐに可愛い女の子がセキュリティと一緒に現れて彼に自己紹介しているのが目に入った。二人はとても楽しそうに話し、電話番号を交換し合っていた(全部自分の目の前で起きていた)。携帯を切ったのは、ちょうど彼女がバンドのメンバー達とバンで立ち去る瞬間だった。

そして2年後の今日、彼らは夫婦でいる。自分はというと、元彼が元彼のままでいるだけだ。

なんで私は信じられないくらいのペンデハ(pendeja:大間抜け)なの?

追伸:ひとつ言うのを忘れてた。たぶん彼は自分じゃなくて彼女のものだったってこと。けれど、なんで試さなかったのか納得できていない。それが問題。恐れにたじろいで行動に移せなかったときって、他の誰かが勇気を奮いそれを手に入れる。たったそれだけのこと。
カウンター

WELCOME TO Move On

異文化と自然を愛するイグアナ楽団のページへようこそ。これまでメキシコとアメリカに合計10年住んできました。それ以来人生の歩き方をテーマとして追い続けています。海外を旅するといつも考えさせられる豊かさとは何か。それについて思ったことを書いていきます。
プロフィール

HN:
イグアナ楽団
性別:
男性
自己紹介:
好きな言葉:「生きていくうえでもっとも大切なことは、自らを律し、可能な限り自分に正直であること」
by Robert Redford

mail : cocovenice@gmail.com
人生のお買い物

最新コメント

[05/13 Backlinks]
[03/25 イグアナ]
[03/17 ハナ]
[02/05 ハナ]
[09/24 イグアナ]
最新トラックバック

アクセス解析

バーコード